天才数学者でありながらさえない高校教師に甘んじる石神は、愛した女を守るため完全犯罪を目論む…。数学だけが生きがいだった男の純愛ミステリー。『オール読物』連載を単行本化。
「週刊文春傑作ミステリーベストテン」「このミステリーがすごい!」「本格ミステリ・ベストテン」の頂点を総舐めにし、つい先日、第134回直木賞を受賞。非公式にであれど、昨年度のベストミステリに君臨した一作。最早否応なく期待は高まったのですが、完璧に応えてくれました。傑作。
天才数学者、石神の犯罪。あまりに完璧な犯罪だと呼んでもいいのではないでしょうか。これは完全犯罪だ。いや、これまでミステリ書き、ミステリ読みが探求してきた「完全犯罪」の新しい形なのではないでしょうか。ミステリを読んでいて、こんな騙され方をするのは滅多にないことです。石神の仕組んだトリックは、
己の愛する者を守るために仕組んだトリックであり、同時に
犯罪を隠蔽すると同時に己が罪を背負い、相手を完璧に逃がすためのトリックでもある。トリックそのものよりも、この思惑を知った瞬間に走る戦慄には凄いものがありました。
本作は犯人である石神(共犯者である靖子も)の視点、捜査側である刑事の草薙や天才物理学者湯川の視点、と多重的な描かれ方をしていますが、基本的に犯人である石神の視点が中心である倒叙のスタイルを取って書かれています。しかし…、まさか
本書で用いられる叙述トリックが作中人物(草薙や湯川は勿論、靖子も)と読者との両方に働き掛ける種類のものとなろうとは。
しかし伏線は彼方此方に張られているのですよね。事件の肝は
靖子母娘の持つ事件当夜の堅牢なアリバイにあります。これが提出された際、読者は(そして靖子は)事件が経過するにつれ、
どうして靖子のアリバイはいつまで経っても崩れないのだろうと当然、疑問に思うのです。僕も随分長いこと、首を傾げつつ読み進めていたのですが、これが真相と密接に絡んでいました。
本書の多くが、その「アリバイ崩し」に関する描写に用いられているために、読者は真相の手掛かりを見過ごしてしまう。高校の教師でもある石神の数学に対する姿勢がなんとも印象的です
が、これが最大の伏線でしたね。
警察の目を欺き、探偵の目を欺き、
共犯者である靖子の目すら完全に欺いた天才数学者、石神。最後の最後の最後まで、論理的思考に基づく彼の計画は完璧でした。しかし天才が為した犯罪の中、ただ一つだけ読み違えたのが、
自らが愛した女性の心。例え精緻な数式のように無機質に、完全に論理的には出来ていないのです。彼の犯罪は完璧だった。しかし
彼の言動の真の意味を悟ったときに靖子が取った行動までは予測することが出来なかった。靖子が最終的に
工藤を選んだのか、それとも石神を選んだのかは語られていません。読者が終盤まで錯誤しながら読み進めるのと同じように、石神の持つ人間に対する感情の流れというものにも、根本的な錯誤があったのかもしれない。それゆえに、途方もなく切ないラストとなっている。まさに慟哭。けれどもそこには救いもあるように思えてなりません。ここに、本作をミステリとしてだけでなく、恋愛要素を大きく含んだ小説としての評価を認めることが出来るように思います。
東野 圭吾著
文芸春秋 (2005.8)
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