なにも欲しくない。誰のためでもない。誰も褒めてはくれない。ただ、飛びつづけたい…。戦闘機乗りのクリタは、上司クサナギが永遠の命を持つキルドレではないと知らされる。戦いを生きる子どもたちを描くシリーズ。
「スカイ・クロラ」シリーズ、第4弾。シリーズの主人公とも言える、パイロットであり指揮官である草薙水素の部下、クリタの視点で物語は進む。シリーズとしての大きな「物語」が進むに連れて、読者の思索も深いところに及んでいく。
森博嗣氏の小説の中でも最も、彼の「文法」の特徴が現れていると思われる、詩的な文体に重点が置かれたこの小説は、その着地点が読者にはなかなか窺い知れないアンバランスさを備えているようです。戦闘機と飛行士の物語であるゆえ、その死生観は明らかに地上でしか生きたことのない、地上でしか生きられない常人とは一線を介したところにある。他の多くの飛行気乗りがそうであるように、クリタも紛れもない「飛行気乗り(パイロット)」である…、それは、誰もが空で生き、空で戦い、空で死ぬことすら願っている。しかし自分の意思だけでは「自由」を手に入れられないもどかしさ(戦闘を終えて地上に戻ると、彼は「楽しく飛べた」と満足して眠りに就くのです)を常に胸の内に抱えていることでも窺い知れる。空への純粋な思いを抱き続けたまま、戦い続けるために、永遠の命を与えられている、キルドレと呼ばれる子供たち。彼もまさに、そんな一人です。
キルドレ。この言葉の真意を解説された場面はなかったように記憶しているのですが、語感から察するに「kill children」の略称なのでしょうか。老いることを知らないということが、即ち成長しない、という意味にはなり得ないように、「子供の部分を切り離す(殺す)」ことで生き続ける者たち。決して人間らしくないわけではなく、笑いもすれば、怒り、涙を流す。そして…、彼らは一様に、子供っぽさを表に感じさせない成熟さを併せ持っている。これは即ち、彼らは単純な意味での「子供」ではないのだ、ということが読み取れるでしょう。「仕事」として敵の戦闘機を落とす割り切り方は、それが人を殺すことであると重々知っていてのものであるだろうし、自分たちが何のために戦うのか、ということについても、彼らは把握しているはず。そこに「大人」たちの何らかの政治的策略があるのは間違いないでしょうけれど、それを知ろうと知るまいと、彼らは飛べれば満足を得られる。「キルドレ」という俗称を用いるから特別な作りをしているように思えるのであって、もしやすると戦闘機乗りの思惑を純粋に抽出すると、実質的にはそんなものかもしれません。彼らはだから、空で戦うことを「踊る」と称する。
洒落のようで申し訳ないのですが、本書を読んでいるときに強く感じたイメージが「浮いた話はないが飛ぶ話はある、みたいな」だったのです。しかし、これは思い返してみると実に不自然な感想。本書の主人公であるクリタは、幾つかのエピソードにおいて、数人の異性を相手に幾度も浮ついた感情を持て余している。そこには瑞々しい言葉の遣り取りはなく、そこにあるのは事実だけである、という現実を半ば諦観したようなものの見方が随所に見られるのです。ところがその裏側では、クリタが自分の抱いている好感が一体、誰に向けてのものであるか、悩み、戸惑い、諦めつつも納得している。ロジカルな感情とメンタルな感情が同居することによって混乱を禁じ得ない、まるで本当に彼が少年であるかのような葛藤がそこには描かれているようにも読み取れる。無機質なイメージが前面にあるこのシリーズにおいて、同時にそこにはその性質とは正反対の人間の恋愛模様が描かれている事実を、「そこにあるのは事実だけである」と言い切ることが出来る当事者が果たして存在するのか。この感情は、
草薙水素と黒猫の戦闘機乗り…、ティーチャと呼ばれる男との間にも存在するのは間違いなく、飛行機に乗っている限りはその実態を確かめることも、自分だけで消化し、または打ち壊すことは出来ない思いの行方をどのように描くかが、本書の行き場のひとつなのかもしれないと思うのです。
森 博嗣著
中央公論新社 (2006.6)
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